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January 28, 2011

Ideology as Taro Okamoto

I will be soon turning off my pc and checking out of the hotel, then take off my way back to Kyoto around 8pm today.

I stayed in PAris for a week, and I felt quite a bit off sprit with a time lag with this trip.

Whenever I went to bed, I woke up at 3am and stay awake till morining everyday.

However, it made my thoughts clear and sharp surprisingly enough.

Anyway, I had enough time to think over many issues and read books.

I had several books with me for this trip, and I ended up with reading only one book in bath tub and bed.

It comes to my heart so directly, so I repeatedly read same texts so many times in this book called "Ideology as Taro Okamoto" by Norio Akasaka.



「岡本太郎という思想」 赤坂憲雄著


ー「『世界文化』という基準があって、それに追いつくことが進歩だと考えているところに、文化観の根本的な狂いがある。

なるほど今日、世界じゅうはますます近代化され、同質化してくる。世界の歴史は、ひたすらその方向にひらいてきたし、そして今なお急速にその道を進んでいる。しかしそこにいいようのないむなしさが生まれていることも確かだ。なにかが欠けている。人間不在という感じ。

なぜだろうか。もちろん、さまざまの角度から説明されうる。その一つとして、私はそれぞれの文化の独自性、その実体が、強烈な生命力を失っているところに問題があると思う。

この普遍主義の傾向に対し、それをのり超えるものとして、私は逆に、それぞれの文化の固有の運命、特殊性にかけるべきだと主張する。どうも今までの日本の姿勢は、外にひらこうとしすぎるために、かえっておのれをゆがめていたようだ。猛烈に外にひらこうという意志と同時に、一方に、世界に通じなくてもいい、と決意する必要がある。そういう情熱によって、自分自身になりきれば、不思議に自信がわきあがってくる。

普遍が特殊を包含し、のり超えるという近代主義的な手続きではなく、内なる眼を見ひらき、逆に『特殊』から『一般性』を見かえし、のり超えるのだ。一見、孤独な努力だが。すると予想しなかった深いところで、意外にも人間がひらき、世界と通じあうのである。」


ー「はじめ、私は『日本人』であるよりも、『世界人』であればよいのではないかと考えた。青春の十年以上もパリに住み、世界のあらゆる文化圏に通じる場所で、世界人になりきろうと努力し、実践した。ところが、世界を見る場合、逆に自分の目を凝視しなければならなくなる。それは当然、自分を生育し、形成した特殊な諸要素につながる。私は明らかに日本人であったのだ。日本人としての存在を徹底してつかまないかぎり、世界を正しく見わたすことはできない。

中略

われわれは世界内の自己である。人間としてものを考え、自分を意識するとき、いつでも世界、自分を対立概念として考え、とらえるのだ。つまり、このひろがった世界に対して、とざされた自分。—それは当然、日本人としての自覚をふくむ。世界に対しての存在感である。」


by izukuranaoto | 2011-01-28 16:15